ロロイニャンのフリースタイル思(おも)い

目次
Eバランス取りたい≒仲介者INFP?
D妄信と制御の鎖
C動物のお医者さんのラジカセ犬
B能ある鷹は爪を隠すどころか姿そのもの隠す
A水木しげる顔の人
@ブランデー戦記
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Eバランス取りたい≒仲介者INFP?
例えばAとBっていうチームがそれぞれあって、Bが劣勢だった時、私はそっちに加わりたいと思う。

どちらが良いか悪いかじゃなくて、どっちかが勝ってどっちかが負けるような状況が好きではないから。
劣勢な方が悪いやつらだとしても肩を持ちたい。
優勢な方を何とか引きずり落としたいという事でもない。

現実にはそんなAとBってはっきり対立した構図は少なくて、勝手にAが正義とされててA側の人が勝ち名乗りを上げて、Aじゃない人=Bの人達はそんな勝負に参加するつもりもないのに負けとされているみたいな事の方が多い。

結婚についてもそうだと感じる。
しないとダメだと盲目的に言うノリ。

実際には個人主義の現代においてはパートナーと婚姻関係になるかどうかも自由であり、逆にいうと個々人の在り方というのは千差万別。
かつ逆に個人的な生きるテーマを自ら設定し挑戦する事があるべき姿であるのに、過去の経緯から良いとされていたものにただ何となく従ってしまうのはむしろ負けである。

勿論さっさと結婚して家庭を持つのが良いとされていた時代がたった数十年前まで当たり前だった事を踏まえるとそれに流される人がいるのも理解できる。しかし潮目が変わっている事に気づいてないのに旧来の価値観を声高に叫ぶ事に疑問を持たない人というのも、ストレートに言ってしまうと愚鈍すぎる。

先日もそういう結婚を是とする事に異を唱えたのだけど、これは結婚をしない/できない人を哀れんで肩を持ったのではなく、前述の通り私がバランスを取りたい人であるからに尽きる。


しかしながらバランスを取るというと聞こえはいいがよく考えると
出る杭を叩いて皆等しく喜怒哀楽を享受する世界=良い
と考えているのだろうかとはたと気づく。

それって何か村社会的というか、共産主義というか、天上天下というか。

そういう事じゃないのですよね。
偉い人が良い思いをしてるのは逆にそんなに必死になっちゃって何か満たされない人なんだろうなと思うし、勝手に弱者にされている人を虐げる構造に義憤を抱いている気も少しする。
だからと言ってみんなで得たものを等しく分けて仲良く暮らしましょうね、なんてお花畑な事言うつもりはサラサラない。

何か肩書とか富とか領土とか手籠めにした人数とか、そういうのもういいやんって思ってるのかもしれない。
そんなつまらん競争いつまでやってるねんと。

結局どんなに数字やステータスを得ても自分が腑に落ちてないと満足できないし逆も然りだってみんな分かっているのじゃないかと思うのだけどどうもそうでもないらしい。
隣の芝生はなんとかとか、色々言葉もエピソードも死ぬほど溢れてるのにまだそんなに競争したいか。

したいのだろうから皆しているのだろう。
そして「したい」という自覚すらないままに走らされている人もいるだろう。
しなければならない理由のある人もいるだろう。
せずに他に何をすればいいのだと思う人もいるだろう。
私の中にそういう競争したい気持ちとエネルギーが潰えているから私はそう思うだけなのかもしれない。

先日、結婚できないから羨ましいのだろうと浅はかな声が飛んできたけどそんなシンプルな話だったら楽なのに、とそういう思考ができるその人達が逆に羨ましかった。


皆が競争心を持たず、うまく共存する世界について考えてみる。
なんかなよなよした世界な気もするが果たして私はそれを望んでいるんだろうか。


16性格診断をやると仲介者って高確率で出るんですよね。
ちょっと引用すると

真の理想主義者で、極悪人や最悪の出来事の中にさえも、常にわずかな善を見い出し、物事をより良くするための方法を模索しています。

とある。
なんかまあ私の考えに近い気もする。
しかしイラストは何か優しいエルフが花を持って軽やかに舞っているようなもの。何か違う気がする。どっちかというとこんなやつになりたくないって像。

続いて仲介者の有名な人でトールキンのセリフがある。

金はすべて光るとは限らない。放浪する者が皆迷っているとは限らない。年老いても強いものは枯れない。

これも考えが近い。
懐疑的というか、その良さげな状況ってのは本当に良いものなのか?と自分にも他人にもよく考える。

いや自分に対しては
「これが本当に良いかどうかってよりも、まあ現実社会において良いとされているのだからせっかくだから頂いておこう」
くらいの打算的な考えで生きている。


という風に16性格診断に対しては6割程度は納得するけど諸手をあげて賛同はできない。

なんていうかですね、この仲介者ってやつはひ弱なんですよ。
こうだったらいいなって思ってて、ちょっとでもそうじゃないと心が折れてしまうみたいな事書いてある。
私もそういう所あるけど、でもそれって理想と現実の区別がついてないって事じゃないですか。
私はそれなりに現実ってそういうもんだよねっていうドライな目が一応ある。
そのドライな目で現実を皮肉めいた感じで見てしまうのも事実だけど。

んで、そういう私からすると「AとBが対立してて、バランスを取りたい」って事の意味は
「そんな対立しないで勝ち負けなんかつけないでほしい。そんな争いの世界なんかいや!そうじゃないなら泣いちゃう!」
みたいなバカみたいな感じじゃなくてもっと
「どうせ対立するならバチバチにバトルすればいいやん。そのためには変なズルはするなよ勝ちたいからって浅ましいカスどもが。負けてる方も言われっぱなしでうつむいてんじゃねーよ、相手をよく見ろよ端に調子こいてるだけのカスじゃねーかガンガンやり返せよ」
みたいなバトルタイプなんですよね。

きりきりと張りつめたワイヤーみたいに拮抗してこそのバランス。

そんな状況でこそお互い認め合えるものがあると思う。
つまらない二律背反じゃなくて「どっちもええな!」って気持ち良く共存できるみたいな。
そういうのが良いなって思うしそういうのを望んでる。

個々人がそれぞれ自分が良いと思う自分のスタイルを確立してソリッドに高めていって、そしてまったく異なるスタイルだけど同様に自分なりに高めている人を「高めてていいね!」って言うみたいな。
手を貸した方が良さそうな状況があれば自分のポリシーに根差した生き方の一環として出来る事を迷わずする、みたいな。
そういう振る舞いやら在り方ってのが成熟した現代人って気がする。
そういうAとBがあるとしたら、どっちも頑張れって心から言えるし自分も負けてられないな..!って燃えられると思う。

とここまで考えて、いやこれこそ理想主義なのかな?とか思うし、これってもしかして多様性って事なん..?多様性って言葉もうだいぶ前に登場して「まーたしょうもない意識高い系の言葉出てきてるやん」って鼻で笑ってたけど今更多様性いいねって思ってるん..?なんか恥ずかしいが..//ってなってる。




D妄信と制御の鎖
「信じることが全て」とか、「信じるか信じないかはあなた次第」とか、「信じる者は救われる」とか。
生きていく上で信じる事って結構深い所に根差したものっぽいじゃないですか。
実際「なんとかなるんだ」って強く信じる事でうまく切り抜けられる事だってあるし。

でも信じるのってかなり危うい事でもあると思うのですよね。

「感情とか抜きで合理的な判断してく人は強い」
ってツイート先日して。

「他人から見たら取るに足らないことにこだわる事こそが「生きる」って事だと思うそこをないがしろにしてやり過ごしたらよくない絶対」
ってツイートもその後すぐして。

両方ともその時はそう思ったんだけどこの二つって矛盾してるんですよね。
合理的と非合理的。
前者は感情を押しのけて、後者は感情を優先してると言える。

感情に身を任せるかどうかって「自分はそうしたいんや」って自分の気持ちを信じる事だと思うんですよ。
いやただのノリやでって思うけど深い所ではそういう自分の内なる声を「正しい」って判断してる。
それが信じるって事だと思うのですよ。

で、それって合理的でもないし下手したら倫理的でもない場合があって、それでも「そういう風にしたい」って自分を信じてしまうがあまりとんでもない事をやらかしてしまう場合もある。
自由恋愛とかもそういう事あるじゃないですか。
二人の世界での自分勝手な尺度の言動を取ってしまうとか。
どこまでも行きつく所までいってしまうとか。

誰がどう論理的に数字的に説得してももう信じてしまっているのだから聞く耳がない。反省もしない。
それくらい信じる事の力は強い。

逆に言うと人間は何かを信じる力がすごく強い。
この粘り腰の強さはもう引力みたいなものだと思う。
夕暮れの海辺で膝くらいまで海に入ってると潮がすごい引くじゃないですか。ああいう感じ。
乳飲み子が生きるために母乳に吸い付くような怖いほど無垢な力みたいな。

こういう時に何かの組織に属しているのって抑止力になるなって思う。
ルールがあってそこから逸脱したら排除されてしまうから。

鎖に繋がれてるから従うしかない。
でも逆に自分の勝手な想いで暴走しないで済む。
ほっとくと暴走しがちな人ほどその有難みが分かると思う。自分で制御するの疲れるししなくて良いのってラクだし。
自分の信頼する人と結婚してそれを守るために「結婚」って状態にただただ従っていくのもきっとそういうメリットあると思う。

好き勝手してる人って大概自分を信じて突っ走ってるから危うい。
自分の気持ちに正直でいるのも良いけど、全部それに支配されてしまうともうそれって自分で自分をコントロールしすぎて逆にコントロールできなくなってるっていう訳分からんグルーヴになるっていう。
自分の内なる声とそれを賛同する自分みたいな複数の自我が引き合ってるからやばい


そういう風に色々考えた挙句、こういうツイートをしたら何となく腑が落ちた。

「本当の自分を見ないで済めばそれで良いのかもね」




C動物のお医者さんのラジカセ犬
そういうタイトルの漫画のあるエピソードにそういう犬が出てくる。

小さいときからラジカセに繋がれてるから自分では動かせないと思ってる犬。
今は成長して大きいから余裕で動かせるのにそういう思い込みからラジカセの周りをうろうろするしかできないっていう。

日常の細々なタイミングで私も似たような所があると気付く。
子どもの時苦手で食べられなかったものが今は全然うまいやんってなったり。
なんか一人で入るの緊張したようなお店とか平気で入れるようになってたりとか。

そういう心の脱皮みたいのが時折ある。
なんだ全然簡単じゃない、と思う半面なんだか無駄に恐れてた頃が急にセンチメンタルに思われる。
もっと恐れてたいとすら思う。
でももう怖くない..
怖くない人になってしまった。
怖くないとなんだか味気無いんですよね。
お化け屋敷とかただの作り物やんって言うような。
ワーキャー!と盛り上がりたい。

もしかしたらそういう恐れとか不安とかって実は楽しいのかもね。
まだもうちょっと怖いものあるから、それ大切にしていきたいかも。




B能ある鷹は爪を隠すどころか姿そのもの隠す
人と関わるの好きじゃない私ですが最近いたしかたが無く初対面の方々と関わらなければならない機会がありまして。
しょうがないから色々取り繕って話してて、相手の人は正直パッとしない人だなーって失礼ながら思ってて。
でも話していくと結構思慮深いし、あっちゃんとしてる人だって分かってきて。
最後の方はもっとこのお方と喋りたいのに..って気持ちに。

普段人と関わらないから単純にコミュニケーションが嬉しいのかもと思ったけど、それを差っ引いても普通に能ありそうなお方だなと思った。
だけど話聞いてるとかなり消極的でそのせっかくの良い人柄や能力を外に出さなそうだった。
別の人とも喋ってたんだけどこっちもそういう感じだった。
大体十人前後と喋ったんだけど、よく喋る人はありきたりの事をかなり無駄な言い回し込みでだらだら喋ってたのに対して、前者の方々はこっちから話振らないと喋らないほどなんだけど喋らせてみると能ある鷹だった。

いや鷹って感じじゃない。
能はあるけどもっとすみっこぐらしのキャラみたいなので能あるすみっこというか。
そんなに引っ込み思案だともう能がある事はきっと世の中のほとんどの人に知られないままなので、姿そのものが隠れてるのと同じだなと思った。
その人がそれで良いならいいんだけど。

でももっとその能力を見せつけてほしい。
ネット上とかだと見せつけまくってるかもしれない。
でもそんな顕示欲とかもなさそうだったし、ただただ思慮深い能力あるけど透明な人なのかも。

透明な人っていいな。
私も透明な人になりたい。
でもネットだとロロイニャンだよーーーーーーん!!ってアピりまくってまう。




A水木しげる顔の人
周期でいうと数か月に一回くらい顔を合わす人がいて、最初に会った時から特徴的な顔つきのお方だなって思ってて。つい先日も会ってやっと分かったんだけど「めちゃめちゃ水木しげるの漫画に出てきそうな顔つき」っていう。
めっちゃ水木顔。こういう造形のキャラいるいるっていう。

またしばらくしたら会う可能性大なので次会う時は「特徴的な人」から「水木マンガに出てくるキャラ」として会う事になるので今から楽しみ。
ちなみに私は水木マンガ大好きなので小ばかにしているわけじゃありませんのであしからず。

水木マンガ顔ってなんだよって話なんだけど、私が水木しげる面白いって思ったのは水木しげる伝っていう彼の自叙伝漫画を読んでからで、最初は戦争で腕無くして命からがら帰ってきてってとこ壮絶だなあって見てたけど、段々戦後の混乱期に色々漫画家になるまでやってる時期があって、そこである日隣に住む男が国際スパイか何かで逮捕されて、後日その男の親が迷惑かけたと菓子折り持って謝りに来るってシーンがあって。

その親の顔がむちゃむちゃデフォルメされてるんだけどすごい「こういう顔の人のこういう表情してるの分かる」って伝わってくる絵で。目はもう線が2本、鼻はぐるんと丸まったでっかいのが一つ、上唇ががっつりあるっていうだけの数秒で描けそうな絵なんだけど「こういう人いるよね」っていう。

そんな簡単にリアルな絵を描ける水木しげる普通じゃねえってそこからハマったんだけど、上述のお方なんてまさにそうで数本の絵で描けそうだしつーかこういうキャラどっかで見たしっていう。





@ブランデー戦記
という名前のバンドのMVがYouTubeおススメ出てきてバンド名か曲名か分からないけど良い名前だなって時点でもういいね押しそうになったけど一応聞いてみたら良さがあったので押した。

押しながらどれくらい登録者数いて再生まわってるのか見たんだけど、そこそこの数字だと「やっぱいいねって思って正解だったな」ってどこか安心してる。でもそういうの見ないと「これは良いものなんだ」って安心できない自分の感性って微妙だとも思うのでこの安心はあまり感じたくないタイプのもの。

ツイート見てても他のあれこれ見てても
「たくさんの人がいいねって思ってるものなのか」
ってつい見てしまう。
全然いいねがついてない動画を目の当たりにして
「なんかこれ良くね?」って思う時
「でもあまり反応無いからあんまり良いものじゃないのかな?」って少しゆらぐ。

テレビはオワコンとかいうけど、結局「テレビで紹介されてたから良い」=「SNSでたくさんいいねされてるから良い」って似たような目安を求めてる時点で本質的構造は変わってないのだと思わされる。


数字は良し悪しの目安として分かりやすい反面、影響を受けてしまうし、目安が無いと自分の感性に自信がなくなってしまうのトータルであまり好きではない。でもそう思ってても知らず知らずの内に依存してしまう。

その証拠に本屋に行って全然よく知らないコーナーをぶらぶらしても
「一体どれが面白いんだ?これおススメって書いておいてくれたらいいのに、一個一個ざっと読むのはだるすぎる」
って思ってしまう。

もっと純粋に、妙な自信を持って本屋に入って「きっと一番良い本を私は見つけられる」って眺めてパッと取ってサッと開いたら「そうそうこういう文が読みたかったんだよね」って見つかって意気揚々とレジに持っていけた頃があった気がする(気がするだけかもしれない。でも少なくとも誰かのいいねの数とかを頼りにしてなかった)。

色んな所で言われてる様に人間は怠惰なので楽をしようとしてしまうあまりこういう事になるのは致し方が無い事なんだろうけどなんだかなあって。

だからブランデー戦記の事も「いいねが多いから良いんだ」ってどこかで思ってしまってる以上純粋に私自身がいいねって思ったものじゃないので、どこか他人事のような気がして、そしてあまり好きになれないだろうっていいねを押した時に思った。


もしそういう再生数とかいいね数が見えない作品を展示する場があったらどうだろう。
もしかして「見えない」ものとして扱われるかもしれない。




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